5/2/2001
「雨の讃岐路に散る桜」

「〜貴様とオーレとーは、同期のさくらー」という歌い出しの軍歌「同期の桜」があるが、今度の四国路は、ホントそういう桜と散ってし まった。そういえば、戦争末期、特別攻撃隊(特攻)に「桜花」という、紙飛行機みたいに突っ込んでいくグライダー特攻機があったなぁ。ア メリカ軍はコードネームで、桜花のことを「BAKA」と呼んでいたらしいが(汗)。
 同期の桜は別にこれから書く話とは関係のない事なのだが、ゴールデンウィークに行った四国自転車旅行の事故は
本当に、威勢のいい男2人が本当にへこまされ、散った桜かなぁと思ってみたので、すこし前の文を引用してみた。
 今書いてるのは、このとき起こった事件から、ちょうど1ヶ月経った六月に書いているので、そのときに書いた、文章のまま
ここに抜き出します。そのときの方がリアルだと思うので。
 
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2001年5月3日

昨日四国から帰ってきたユウキです。本来なら、4班の大雅(竜王様、仮装の時のえいちゃん)と
四国マウンテンバイクツーリング旅行まっただ中なハズなんですけど・・・
      
 というのも昨日の早朝4時50分頃、香川県高松から南西約30キロの、綾歌町国道32号線沿いで、
「ひき逃げ容疑事故」が発生しました。時間的に明るくなって視界が効くときだったのですが、大型トラックが、
大雅と前に走っていた僕との横すれすれ(約5センチ)を走り、走り去っていったのです。

  僕は、自転車で淡路島も一周したり、結構、自転車で旅をするのですがあんなことをさ
れたのは生まれて初めてです。その強引な抜かし方(後ろの2台の別の車はちゃんと横にそれたのに関わらず)によって
大雅の自転車は転倒し(もしくは接触したのかも知れないのですが)彼自身は、路面に投げ出されたようです。
      
  駆けつけたとき、鼻血が出ていて、付近の住人が警察を呼んだみたいで私は、救急車を
至急呼び彼は隣町の綾南町にある滝宮総合病院に緊急入院しました。
  怪我の方は後の検査で頬骨奥の骨折など顔面4ヶ所が骨折している様で、本当にやるせない気持ちで一杯です。
今日昼過ぎには、彼は実家、高松の方に戻るようですが、神戸に帰ってきたらパーティーなどを企画したいと
思っているのですがよろしくお願いします。
 
 彼はこの自転車旅行を一番楽しみにしていたので、本当にその夢をうち破ったトラック
に本当に怒りがこみ上げてきます。
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という事件やったんですけど、本当に怖い事故でした。生命の尊さについて考えさせられる時やったように思います。
帰りの加藤汽船の浴そうの中で、そのことを訥々と考えていたように思う。(お風呂に入ったのは、体が雨でベチョベチョ
やったから。)幸いに現在、大雅(僕の後輩)は元気になっており、彼の笑顔、威勢のいい声を聞くたびに良かったなぁと思う
今日この頃。いつか一緒に行こうって言ってた足摺岬まで行こうな!別に俺はインド最南端のクマール岬(やった?)
とかでもいいけど(笑)チャリで行くのはしんどそうヤナ?うーん(^^;)

春雨とペダルの音の調和する
讃岐の春雨に見送られる俺
濡れた讃岐路に散る遅咲き桜
思い詰め食すうどんの涼しさよ
春雷と汽笛を聞ひて去る讃岐



4/30/2001

「写真」

 ここのコーナー、日記と言うよりもエッセイ集みたいになってきて収拾がつかないなぁと思っている今日このごろ。前の日記から15日も あいてるし・・・怠惰な生活から抜け出さないとって思う今日この頃。でもはまったらなかなか抜け出しにくいのかな?(汗)
 テーマは写真であります。今年は僕は修士課程の2年生という事もあって、ほとんど講義がない。学部時代からすると楽すぎるスケジュール なんやけど、逆にこれからやらないと駄目なことを自分で作っていかなければならずレールの上しか走らなくて良かった自分には非常にキツ イ。(笑)ホント自分を見直したり、これからのこと考えたり、いろいろと頭の中を駆けめぐります。

 前の「レール」と重複しそうなので、この辺で話は置いておいて、本題にはいると、今年とっている少ない講義の中身は修士論文を書くた めの講義「演習」と、あとは自主的にとっている、「人類学特殊講義」TとUです。今年の特殊講義は、主に図像分析と映像人類学をやるんや けど、それがなかなか濃い講義でメチャメチャおもろい!!民族誌映画を見たりもします。インカレの研究会もあるので、興味ある方は荒川ま で。

 その「人類学特殊講義T」でのウチの師匠の写真に関するコメントがつい最近一番心に残ってます。

 「関東大震災の時、猛火のあと、呆然と立ちつくしたある老婆が風呂敷包みに入れていた唯一のモノは位牌であった。阪神大震災の時 僕 が、震災の聞き取り調査の途上で見たのは、被災した家屋の前で掘り出したアルバムをじっと見つめる初老の男の人の姿だった。」

写真は、思い出のシンボルになっていると言うことを実感させられるコメントでした。そういえば、仏式のお葬式でも位牌の奥には写真が 飾ってあるし、上座部仏教のタイでも葬送の時、列の先頭を切って歩いているのは、亡くなった人の写真である。(偕成社世界のこどもたちシ リーズ「タイ」より)上座部仏教、大乗仏教、そしてそこから祖霊信仰と結びついたとされる日本の仏教は、教義こそ多少異なるにせよ
同じように現在写真を飾るというのは非常に興味深い!いつくらいから浸透し始めたのだろうか??この研究はなかなか面白いかも知れない。
 
 他の国でも、写真は指導者のカリスマ性を出すための道具として使われているし、日本の選挙のポスターも一番のイメージづくりになってい る。某国では、お札に刷られた肖像を折り曲げないように折り曲げるらしい。

 大きな話は別にして、写真って、本当に面白い。それまで人の歩んできた生活がまさに「手に取るように分かる」のだから・・・
「百聞は一見にしかず」とはよくいったものである。「魂をとられる!」といった江戸時代の人々や南米の先住民の気持ちもただシャッターの 音が気になるだけではなく、案外こういった「思い出を残す」という面も踏まえていたのかも・・・

 僕が、小学校6年生の時に、初めてインタビューを行ったのだが(このころからこういうこと好きやったのかな?)、初めての面接調査対 象者(社会調査的に言うと^^)は、うちのマンションに住む管理人さんだった。この人は北海道の開拓団の息子として生まれその後、満州は 奉天(今の瀋陽)で仕立屋さんをやって、それから満鉄(南満州鉄道)に勤務されていた。
 その人から引き上げの時の話を聞いたのだが、ソ連兵は、民間人はいかなる写真を持ち帰ってもいけないといったそうである。

 もちろん軍事的な意味合いも含まれていたのだろう。しかし人々の思い出を持って帰らせないとする当時の政策は民心を踏みにじったもの だと思う。確かに国家が無くなるかどうかの時期だったからしょうがないのかも知れないが・・・

 うちも満州(大連)からの引き上げの家庭であり、その他の事情もあってその当時の写真は残っていない。どうしても祖母や母親からきく 話と、図書館とかにある写真集でしか想像できない。

 自分のアイデンティティーは何なのか?と悩むときがある。そのときに写真は大きな役割を果たしてくれる。しかし、たどれない道筋があ る。それをたどっていくこと、そこから得られる自分がここにいる意義を考えていくことが僕の今やらないとあかんこと何かなと思う。
 自分とはなになのか?そして自分が存在する社会とはなになのか?歴史を踏まえて考えていきたい。それが今やってることの意義にもなる し、これからやっていくことの動機付けにもなるだろう。

ライフワークにしていきたい。手段は何にせよ・・・

グリーンに遅咲き桜降りしきる
さわやかな夜ドライブで受ける風


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