3/11/2001
「職人」

これからの人生を考えてみたい。

 前に書いた日記は、昨年の11月。今から3ヶ月以上も前のことになる。サボってしまって本当に申し 訳ないと思う。1つ言い訳をさせてもらうならば、昨年末は就職活動、今年に入ってからは修士論文に没頭しており、なかなかこっちにま で手が回らなかったのである。本当にごめんなさい。しかしこの「休筆」(笑)期間中、実りもあった。就職が決まったのである。

 就職活動に関しては、マスコミと教員のみを受けた。マスコミといっても新聞社を2社受けただけで (それも秋採用のみ)、マスコミ志望者から見れば「はぁ?」というレベルだろう。教員も受けたのは公立の採用試験と私学を北海道、東 京、神奈川、京都、大阪、兵庫にある10校ほど。それもやり始めた時期が遅かったため全く主体性のない就職活動になってしまった。な ぜにこう行き当たりばったりの就職活動になってしまったかといえば、自分の中である程度の迷いがあったからである。それと共に教員関 係の就職情報が母校に少なかったために私学の募集があること自体知らなかったためである。

 ある程度の迷いとは、自分の将来についてである。この日記の「大人の学級会」や「道」でも書いてい たように、かなり悩んでいて、具体的に将来何をすべきなのかという策を練っていたのであるが、これほどまでに悩むものとは思わなかっ た。今やっている研究は面白い。しかしそれで禄を食んでいく様になるためにはある程度の経済的に苦難の道が考えられる。そのまま身を 投じても構わない、しかし他の手段はないかと結構長いスパンで考えていた。

 そこで思い出したのが母校の世界史の先生である。彼は新聞の夕刊にも出ていたが、世界の独立国 190ヶ国をまわった人でそこでの経験を生徒に話すという選択授業を持っていた。非常に私の研究領域にも似たところがあって、教育実 習の時にその授業を見学させてもらい大いに感銘を受けた。先生自身が体験された言葉には生徒を説得させる力がある。
 選択科目としてで取っていた生徒も非常にその時間を大切にしているように見えた。こういう先生の姿が あっても良いなぁとそのとき思ったが、自分の道を模索している過程で再び約2年前に感じたあの感動が鮮明によみがえってきた。自分自 身の体験を売ることの出来る商売は他にもあるが、僕にとって最適の商売ではないか?とも考えるようになった。僕は、考えるのが遅いほ うでここまで来るのに多少時間がかかってしまった。そのため普通の人よりも教員になるための就職活動のスタートが遅れてしまった。

 しかし持ち前の?(これしかないという声もあるが^^;)行動力のおかげで、北海道の高校と大阪の 中高の2つから内定をいただいた。家族のこととかを考え来年度からは、大阪で中学高校の教師をやることに決まった。持つ科目は世界史 と中3の公民である。どんな授業が出来るのか、不安ではあるが精一杯自分の仕事をしていきたい。

 2月の末に私の中高時代の恩師である先生が、教員になる先輩と私のために祝賀会を開いてくださっ た。その先生は数学の受け持ちであったが、その科目以上のことを私は学んだと思っている。武蔵が好きで、竜馬が好きで、そして何より も生徒を育てることが好きな先生であった。現在、彼は74歳。僕を教えて下さった10年前のときも非常勤講師として来られていたがな んと現在でも「現役」の先生なのである。特例ではあるが、今年も非常勤として我が母校の教壇に立っている。

 何とも凄いバイタリティーである。教員生活半世紀以上。公立高校当時、「そろそろ」教頭試験を受け るようにと先輩から促されたが、一生涯現場にいたいため断ったという。
 私の通っていた学校は学園創設者の平生自身が「校長といえども教壇に立って教えるのが教育者としての 筋ではないか?」と話し、旧制甲南高等学校時代校長にもなった平生自身が教えていたという設立の経緯があるため、現在の校長はバス ケットの顧問をして、体育を教えておられる。兵庫県の教育長を務めていた前校長(その前はうちの隣の高校の校長でした)も英語を教え ておられたし、その前の前の校長(親子二代で甲南高校校長先生。海軍兵学校出身。世が世なら別の世界の人)は数学の教鞭を執られてい た。

 余談だが、僕が中学一年生の時、自習の課題を友人からうつして提出した(多分式を書いてなかったの だろう)として彼に叱られた。頭を数回こつかれた。「こいつは悪い奴だぁぁぁ〜」と。その後、僕は校長室に謝りに行った。僕は「本当 に悪いことをしたと思うが、誰もがやってましたよ」と自己弁護もした。彼は「みんなやってるからやっても良いという問題ではない。紳 士はうそをついてはいけない。真っ正直に生きろ。小さな悪いことが絶対に大きな悪いことを産むのだ」と非常に穏和な表情ながら諭され た。その後、私は自分の今でもこの言葉が胸にある。誰もがやってるからやっても良いのではなく、何事でも自分での判断が必要だと感じ て行動することが出来るようになったのは彼のおかげだろう。
 
 話をもとに戻すと僕はそういう学校で育ったために校長は教科をもつとばかり思っていた。それが特殊と 言うことに気付いたのは大学に入ってからだったが、私の恩師は、一般的な校長になることを断った。生涯現場で居られること。生徒の熱 い思いに触れることを望んだのである。

 彼は「果たしてどちらが良いか分からない」と言いながらも、自分の生涯現場でいられる喜びを私たち 2人に伝えてくれた。もちろん話し方でも分かるが彼の表情、しぐさは精気に満ちあふれている。もの凄い方である。「後何年続けられる かワカランけど、記録を作ろうとおもっとうねん。」と嬉々として語られるその姿は、教育職人と言う言葉がピッタリと当てはまる。それ と共に彼の自筆の教育方法の虎の巻「説教学講座」と「懇談学講座」を拝受した。千鳥足で帰ってから読んだ。彼の教育に対する思いは酔 いを醒まし、熱い思いが私の血の中に入ってきて涙が止まらなかった。空が白むまでに読破させていただいたが、それから眠ることもまま ならなかった。

 熱き職人になりたい。この想いが私の体を心を動かしている。どこまで出来るか分からない。しかし自 分なりに山を一歩一歩登っていこうと思うと思う。良い先生に出会えたことそしてその先生からいただいた想いを踏みにじることはすま い。
「うみゆかば水漬く屍 やまゆかば草むすかばね 大君の辺にこそ死なめ かえりみはせじ(or長閑には 死なじ)」とは大伴家持の歌であるが、教職という職人魂をもって、熱く生きていきたい。

 「教育educateの語源であるラテン語のeducoの意味はpull outつまり引き出すである。つまり人間の天分を引き出すことだ」(平生釟三郎)とある。まさに私の恩師は私の熱き思いを中学時代か らずっと引き出してくれたのだろう。今度は私の番である。さぁ!やりましょかい!

春近し心機一転の時期近し
心満つ外は三寒四温かな
梅の香に包まれ論文提出す
教職に弟子入り前の春隣
我が恩師あつきおもひが春にする



11/17/2001
「鈴」

鈴について語ろうと思う。

 このごろ、鈴について非常に興味を持っているからである。四国巡礼(お遍路)は僕の修士論文のテー マであるが、お遍路が必ず持つ、「金剛杖」にはたいてい鈴が付いている場合が多い。生憎、僕が2回の遍路で使った金剛杖には、杖はな い。廉価版だったからだとは思うが、杖の長さも、車遍路向けで少し短い。
 
 自分の杖の話は少し端に置いて、なぜ鈴が付いているかを考えてみたいとも思う。遍路の研究書などを見 ると鈴は「山道などを歩く際に獣が鈴の音を聞き、人との遭遇を向こうから避ける」為に、付いているなどと解説されている。確かに人間 以外の生物も音に関しては非常に敏感である。僕は六甲山の山頂にあるゴルフ場にキャディーとして勤務しているが、夏前の鳥の繁殖期に 口笛で鳥に似せた鳴き声をしてみると、鳥が「ぴーぴー」寄ってくるのが感じられる。保存会の人に聞いたが、あまり鳥の声をまねること は、向こうが混乱して、パートナーを捜すこの時期は良くないことらしい。鳥にとって音は生きる為に非常に重要な要素であり、敏感にな らざるを得ないものなのだろう。人が存在すると言うことを知らしめて、獣と人間との棲み分けをする意味で、古来から鈴は重要な要素に なっていたのだろう。

 確かに上の説は非常にわかりやすい説明だとは思うが、僕はもう一つこういったことが考えられるので はないかと思う。
少し前から「癒し」は非常にポピュラーな語となり、様々な癒しグッズが出てきている。また癒しの国、地 域へ行くこともかなり日本では盛んになってきている。その中で、「バリ島」は一番ポピュラーな行き先となっている。旅行会社のパンフ レットには「癒しの島バリ」が「最後の楽園タヒチ」と同じように枕詞を持って称されている。そのバリ島の音楽の中で、「ガムラン」と いう楽器がある。日本で言う鉄琴の類だが、これの音を聞くと「癒される」らしいのである。何でもそこから発せられる高周波が人を包み 込み、トランスの域にまで到達させるとのこと。癒し系CDと言う名で様々なヒーリング音楽も出てきているが、この高周波をカットさせ ない技術で、ガムラン同様の効果をねらったものもこの中には多いとのことである。

 先週の人類学特殊講義でこの高周波のことが問題になった。トランス状態を導き出す一つの道具である と、だんじりの鉦の音でトランスに入ってしまう例を挙げながら先生方は話されたが、僕は、そこから連想したのが「鈴」であった。
 国文学者の本居宣長は勉学の疲れを鈴によってとったということを思い出したからである。中学か、高校 生の時分だったと思うのだが、「何で鈴やねん!」と鈴の写真を見ながら思ってしまった記憶が連想の過程でぐぐっと前に出てきた。高周 波が一つの答えになるのではないか?金属が発する高周波、これによって本居は「癒され」て、古事記の研究を大成させたのではないだろ うか?と思ったのである。脳の疲れをとることは、つい最近から始まったことではなく、ずっと続いてきたことであるということを裏付け にもなることではないだろうか?

 そして、これは遍路の持つ鈴についても同じ事が言えるだろう。遍路道中で、鈴をずっと鳴らすことで 巡礼者自身が「癒され」、魂を昇華させ、トランス状態にまで持っていったのではないだろうか?季語では、遍路は春。徳島出身の瀬戸内 寂聴は遍路の鈴の音を聞くと春の訪れを感じたと書いているが、鈴の音は四国の人の聴覚から来る季節感である事が分かる。 鈴の音の発 する高周波と春という開放感が底の方でつながっている様な気もする。夏になれば「涼しさを凌ぐ」為、風鈴である。秋にはだんじりで鉦 の音を聴き、師走には108つ鐘をつく。
 
 生活サイクルの節目には、音がある。そして人々は季節の変化を音で聴き、そして「癒された」のではな いだろうか?
 
 今度の遍路では鈴を持っていこうと思う。それは参与観察が僕の手法であるからで、言い換えると自身が 「人間モルモット」だからであります(笑)

 このネタ修士論文でも使えそうやなぁと思ってます(笑)いい鈴ありませんか??個人的には南部鉄の 鈴が好き(^^)

東京行きの切符を買ふ秋深し
遍路作鈴を使つたシンフォニー
霊場に煙と鈴と遍路かな
かすかなる鈴の音の在り連れ遍路
鈴の音の同行二人のテーマ曲


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