9/29/2002
「阪神の色」
 別に黄色ではないのであしか らず・・・(笑)ここでいう阪神とは、阪神タイガースの ことではなく阪神地方のことである。つまり僕が育った場所である。阪神地方というのは、大阪と神戸の間にはさまれて言語を聞 いてみても明らかであるが、双方の文化が入り混じったところ、別の言葉で言えば中途半端なところである。つまりなかなか「阪 神人」としてのアイデンティティーは持てないのであある。東京もしくは地方に行った時などに大阪もしくは神戸人になったりし たほうが相手もわかりやすいということもあってそれのどちらかに化けることが多い。つまり「関西人」としてはアイデンティ ティークライシスに陥ることは少ないのであるが、阪神人としてはどうなんだろうかと深く考えるところがある。
 
 僕は自分のやっていた研究の関係から西宮神社で毎月行われる「民間信仰研究会」というものに出席させていただいている。宗 教界や研究畑、マスコミなどから民間信仰について活発な発表が行われるのだが、今日の発表は徳島大学の三宅先生による「神社 と石とケーキ」となる発表であった。この発表が自分自身のアイデンティティーを確認する上において非常に面白かった。三宅先 生は阪神間を含めた石の研究をされており、石が景観もしくはそこの地域のカラーを作り出すのに大きく寄与すると研究会の中で 話されたわけである。
 
 先生は阪神間の石は花崗岩(別名御影石)であって色が、「ピンク」であると話された。そして谷崎潤一郎や遠藤周作などの作 品で出てくる「阪神の色」を取り上げながら実際彼らが感じていた阪神間のイメージが色から起因しているのだと言うことを示さ れたのである。その色を関東ローム層の色に慣れきっていた谷崎は「明るい(白い)」と表現し、この地で生まれ育って、結局慶 応へといく遠藤は「むやみに明るい(赤い)」などと表現しているわけであって色が心理的に影響することが非常に面白いと私は 感じた。そして実際その地で育った自分も思い返してみれば、もしくは昔の映像を頭の中から探っていくと白い、桜色をもっと白 くした色が背景画として流れていくことに気づいたわけである。

 公園デビューの片鉾公園(←明治時代には香枦園遊園地の目玉遊具であるウォータシュート(ウォータスライダー)があった公 園である)の砂場の色。幼稚園の石垣、祖母に良く連れていってもらった御影の公園の色、小学校の通学路の石垣、中高時代の通 学路の芦屋の街並、夙川での花見etc.....すべてが淡い色である。

 実際土の色には驚かされたことがある。それは20歳の夏に北海道に行ったときのことであるが、千歳空港から電車で深川まで 向かった時に見えた土の色が、黒くてやたらと「怖かった」のである。外国に行く時はある程度身構えるのだが、「同じ」日本の 国内という思いがあって身構えていなかったためにこう言うことが起こったのだと思う。

 その時は、「怖い」という思い、自分の住んでいる環境とは違うという漠然とした思いしかなかったわけであるが、なぜに違う と感じたのかが、今日の発表によって明解になった。刷り込まれた色っていうのは、大切なものなのである。
 僕は旅に出るのが好きで、いろんな国に行く。国内でもいろんなところに行くわけであり、どこに行ってもいろんな人に会いい ろんなご飯を食べ、その時々で楽しい時間を過ごすことが出来ると自分では思っているが、案外微妙なところで嗜好があったこと に驚かされた。

 将来、この土地から離れるかもしれない。なにかの都合で海外に住むようになるかもしれない。ただ、目の奥に焼きついている 白い桜の色のような背景画は永遠に消えることはないだろう。阪神の色であり、その場所で育った僕の心の奥にある色なのだか ら。

 空高くまぶしく西宮まつり
渡御船のぎらつく海を踊りたる
わが街でわが仲間達秋祭り



9/29/2002
「TARO」

あまりにも長い間、書いていなかったのでキチンとした文章が書けるか どうかが心配ですが(笑)

TAROについて書こうと思う。

 TAROと横文字で書いてしまったが、具体的に誰を指すのか というと「岡本太郎」についてである。ちょうど先週の23日まで梅田大丸のミュージアムで「岡本太郎展」が開かれており、私は開 催中2度も足を運んでしまった。
 私にとってはじめて岡本太郎を知ったのは、太陽の塔の存在を知った小学校1年生の時だったのではないかと記憶している。僕に とって小学校初めての遠足が万博公園と国立民族博物館であった。その日はあいにくの雨だったが、彼の代表作である「太陽の塔」 が、しっとりと雨に濡れて僕らを小学校まで帰すバスを見送っていたのがおぼろけけなな印象として残っている。
 彼の人となりについては、流行語となった「芸術は爆発だ」に代表される「変人」として、つまりそれまで一般的に流布されている イメージとしてのみを長い間もつこととなったのだが、彼が亡くなって大学院に入って受けた授業からそのイメージに少し違った色も 加わることとなった。
 その授業とは、「人類学特殊講義」であった。かなり変わった授業で始業は7時である。7時といっても晩の7時。そこからラテン 式にまったりご飯を食べて、実際に講義は9時くらいから始まる。具体的にどういった講義かというと民族誌映画を解説をつけて延々 朝の4時か5時まで見つづけるという趣向のものであった。講義のご担当は民博の大森先生。民族誌映画のリードパーソンである。そ の授業は本当に魅力で幾度となく睡魔に襲われながらもしっかりと頭の中に焼き付いている授業である。
 その授業で取り上げた作品が「タロー・モース」であった。その作品は大森先生の師である、ジャン・ルーシュが撮ったドキュメン タリー作品で、岡本太郎の根の部分ががっちりと見えるいい作品であった。それまでの私が持っていたイメージより哲学的であり、社 会学的な考えもし、そして熱い人間であるということが彼のボディーランゲージを駆使した中から映像を通して伝わってきた(インタ ビューはすべてフランス語であり、それをフランス語を解さない私が映像のみをみたために、それが余計にめだったのかもしれない が)。それと共に彼が贈与論等を著したマルセルモースの民族学の講義を取っていたということに非常に興味を覚えたわけである。そ れから後、彼の事が非常に気になって、彼の残してきた言動に注意を払うようになっていた。そして、ついに彼の作品に触れられる日 がやってきた訳である。

感動した。涙がでた。そして笑いがでた

 彼の作品はそれまでメディアを通じてもしくは太陽の塔くらいのものであリ、知らなさ過 ぎて余計に強く感じるものがあったのかもしれない。なにか「生きる!」っていうのが如実に現れた感じが非常に強く受けた。もちろ んそれはこの展覧会が、「縄文」をコンセプトにあげているからであってそう言う作品を中心に集めていたわけであってその術中にう まいことはめられた訳でもあるかもしれないが、それでもいいと思った。
 僕は、あまりそれまで芸術作品を見て涙が出るという体験をしたことがなかったが、彼の作品にはいたずらっ子のいたずらが端々に 現れていて、僕はそれを見ながらニヤニヤしながら涙が溢れ出すというかなり不思議な動作を繰り返していた。非常に人間的であり、 情熱があふれていて、「生きている」ということを感じさせてくれる・・・なんとも不思議な体験。それが、それまでの僕のもってた 彼の像に見事に合致したことも驚きであった。そして彼の著作を2、3買い求めたがその著作と彼の作風がまったくぶれていない、非 常に筋がとおってるとも感じた。やはり、すごい人であった。人にパワーも与えられる(本人が望んだ事ではないだろうが)人・・・ 「人間」として生きたから後になっても影響を与えられるのだろう。

 僕も、精一杯生きたい。一刹那一刹那、「爆発」していきたい。
どこまでそれが出来うるか?なにに対して出来るのか?


縄文の熱さに泪残暑かな
岡本太郎がニヤリと笑う秋
土器の線魂燃ゆる残暑かな
生きること思いのめぐる二百十日


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